電子ブック日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)無料ダウンロード
日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)
オギュスタン・ベルク / 本
電子ブック日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)無料ダウンロード - オギュスタン・ベルクによる日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)は講談社 (1990/6/12)によって公開されました。 これには212ページが含まれており、本というジャンルに分類されています。 この本は読者からの反応が良く、3人の読者から4.2の評価を受けています。 今すぐ登録して、無料でダウンロードできる何千もの本にアクセスしてください。 登録は無料でした。 サブスクリプションはいつでもキャンセルできます。
日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書) の詳細
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タイトル : 日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)
作者 : オギュスタン・ベルク
ISBN-104061490079
発売日1990/6/12
カテゴリー本
ファイル名 : 日本の風景-西欧の景観-そして造景の時代-講談社現代新書.pdf
ファイルサイズ29.96 (現在のサーバー速度は27.31 Mbpsです
電子ブック日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書)無料ダウンロード - 内容紹介 ヨーロッパ近代が生んだ遠近法と中心がたえず移動する日本特有の空間。視線の差異の発見と再発見、野性空間・田園・都市における風景観念の比較を通して、主体――客体二元論たる近代景観論の解体を論じ、ポスト・モダンの風景=〈造景の時代〉を予見する。風景としの田園――このような田舎の都市生活社たちは、周囲の環境に向けて、往時の農民とはもはやまったく無縁の視線を注ぐ。彼らにとっては田園はまず風景である。だからこそ彼らは田舎らしさの記号を、農家風の建築や手動ポンプの井戸を保存したいと熱烈に願う。そして反対に高圧線や野外広告等、風景を損なう近代経済の記号が拡がることに反対する。すなわち彼らはきわめて忠実な農村風景の守護者なのである。けれども彼らは農業にはまったく無縁で、たいていの場合、地域社会の新参者にすぎない。そのため地域社会は彼らに対して、しばしば煮え切らない対応を見せる。しかしながら田園の都市生活者の趣味嗜好は社会全体において支配的な潮流となり、そのため彼らの風景に関する主張が一般に優位に立つことになる。かつて都市生活者によって発見された田園風景は、こうして農民の消滅のおかげで田舎に対してさえも押しつけられるようになったのである。――本書より 内容(「BOOK」データベースより) ヨーロッパ近代が生んだ遠近法と中心がたえず移動する日本特有の空間。視線の差異の発見と再発見、野性空間・田園・都市における風景観念の比較を通して、主体―客体2元論たる近代景観論の解体を論じ、ポスト・モダンの風景=〈造景の時代〉を予見する。 著者について 【オギュスタン・ベルク】Augustin Berque 1942年生まれ。パリ大学で地理学第三課程博士号および文学博士号取得。現在、フランス国立社会科学高等研究院教授。文化地理学専攻。1984――88年、日仏会館フランス学長。主な著書に『空間の日本文化』『風土の日本』――以上筑摩書房などがある。 【しのだ・かつひで】 1948年生まれ。東京大学文学部仏文学科博士課程修了。現在、白百合女子大学文学部助教授。フランス中世文学専攻。
カテゴリー: 本
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山や川などの自然、レンガ造の街並みや高層ビル群などからなる都市。風景といっても様々な解釈があると思う。しかし本書を読んで気づくのは、現代人が見る風景というのは、前近代の人々が見ていたそれとは全く異なる性質のものであるということだ。自らの周りに当たり前のようにある「環境」を特別視する意識を持つようになって初めて、風景という概念と環境に対する審美眼が生まれたと筆者は指摘する。例えば西欧においては農村の住人は彼らの住む地域を「風景」として認識することができず、逆説的に田園≒農村の風景はそれらを第3者的な視点から眺める「都市」によって発見されたとしている。更に西欧文化の中心である都市では、都市をひとつの家のようなものと考える価値観から、統一された都市が作られた。それが近年の近代化に伴う均質化によって初めて、「統一された街並み」という概念が生みだされたと指摘している。一方で日本には古来より自然を題材にした俳句や絵画などの嗜みがあった。これは日本が伝統的に自然を特別視=客観視してきたことを意味し、自然を風景として指向する概念が受け継がれていたということを示す。逆に都市のような人工空間においても自然を求める傾向は強く、ここの住居に庭を作るといった手法が採られてきた。そこへ西欧都市による「街並み」の概念が持ち込まれ、自らの自然志向を相対化してしまったのである。結果、日本の都市は総体としてみたときに「まとまりに欠ける」というレッテルを張らざるを得なくなった。つまり「風景」が発見されるには自らが主体的に関わる「環境」を客観的にみるきっかけがあったということだ。近代化によって世界が狭まり、写真や想像の世界も含めれば、地球上のあらゆる「環境」を風景として知覚することができるようになった。いうなれば身の回りのあらゆる環境に対して”どの程度の距離を持って主観的・客観的に関わるか”ということが測りづらくなっているといえる。だから高層ビルや「〜風」といった見かけのデザインと場所の関連が希薄になってきている。「造景の時代」というのは読んで字のごとく、あらゆる風景をイメージとして網羅してしまった現在に新たな風景概念を作っていく試みに他ならない。
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